フューチャリスト宣言/梅田望夫、茂木健一郎

中学を卒業した頃だったか高校を入学した頃だったか、いずれにしろその時期から自分の得手不得手を良く考えるようになった。また同時期からWindowsXPが家に来てWEBに身を委ねる時間が増えていった。
得手不得手を考えるようになったきっかけは受験だった。受験特有の決まった範囲の知識を勉強するのがつまらなく感じていた反面、WEBで面白く卓越した人を目の辺りにして自分には何ができるんだろう?どの分野が自分のフィールドなんだろう?そんな疑問を持ち始めた。その頃から色々な新書も読むようになった。少しでも興味を持ったらWEBで調べて本を読んで知識をためこんで。
けど、自分には種を植えるフィールドがなかった。たくさんのことに興味は持てるんだけどひとつの分野だけを専門する気概がないことに気がついた。その代わり気づいたこともある。たくさんの分野に興味があってそれを俯瞰して関係性を見出す、それこそが自分の得意なことに気がついた。たとえるなら既存の点と点を結んで線にして、新たな高さを加え立体にする作業。
つまりは総合的な人間。でも総合的な人間ほどいらない人間はいない、どれだけ専門的になれるかどうか。そういう風な教育をされてきた。世間の風潮もそうで、そしてそれが残念ながら正しいことだと思っていた。
けど、「フューチャリスト宣言」ではまったく違う切り口を見せてくれた。

梅田:たくさんの分野に興味があって、関係性に興味がある。俯瞰してものを見て全体の構造をはっきりさせたいという志向がある人は、これからの時代に有利になってくる気がします。
茂木:これからは「システムの一人勝ち」が実現する可能性がある。俯瞰性というのはまさにシステム側の視点に近づいていくことです。

ギークオブギークでない私はまさしくコモディティ化の問題に対峙していて、二人のフューチャリストとしての視点は共感を覚える。茂木さんは俯瞰して関係性を見出し今までは見えづらかった世の中のありようを明らかにすることを「補助線を引く」と表現するのだけど、それが自分が高校の時に思考していたことと被り嬉々としてしまった。
ペシミストオプティミスト相転移させてくれる良書。おすすめ。

参考:梅田望夫 MyLifeBetweenSiliconValley andJapan  id:umedamochio
   茂木健一郎 クオリア日記(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/)

[rakuten:book:12054140:detail]

スパイダーマン3を見て

yurara19862007-05-07

三宮。ミント神戸にて。GW終日で混雑してました。その中でも一番人気はやっぱりスパイダーマン3。楽しかったです。
見所は3次元的なカメラワークのアクションシークエンス。前々作のスパイダーマンではシークエンスの切り換えによって3次元に見せてたけれど、スパイダーマン3ではひとつのシークエンスで横、縦、高さを映し出していて文字通り縦横無尽にスパイダーマンが駆け巡り臨場感たっぷりでした。またドラマシーンも良かった。ヒロイン役のキルスティン・ダンストから
「あなたって、とってもオタク(NERD)っぽいね」
と言われるトビー・マグワイアが最後までNERDなのである。まるで蜘蛛のように。決してGeekではなく。黒い微生物に寄生されて黒スパイダーマンになってしまい、陰湿な嫌がらせをしたりワルぶったりするのだけれど、結局はNERD。彼女を傷つけて気づくのも時すでに遅し。自分が好調なときは、他人の不幸には鈍感になるものだけどトビー・マグワイアは人一倍気づかない。導入部でキルスティン・ダンストと将来を語るシークエンスで
「I'l be there」(僕は君の劇の最前列にいるよ)
と格好良く言ったのは何だったのか。なんだか悲しくなる展開もトビー・マグワイアNERDな雰囲気がなせるわざだと思う。でもそんな彼だからこそ復讐し、復讐され、新たな憎しみを生みドラマを生み出しているんだろうな。冴えないトビー・マグワイアがちょっとだけ好きになれる、そんな映画でした。


*余談だけど最後の戦いに挑むシークエンスでスパイダーマンの後ろにでかでかと星条旗が映る。NERD或いはNERDアメリカ(弱弱しい)の露骨な啓発でちょっと嫌な感じがした。唐突に感じたし。日本が最速公開だし星条旗が日の丸だったら良かったかも。…いや笑っちゃうか。

ぼくを探しに/シェル・シルヴァスタイン著

yurara19862007-04-20

本棚の整理をしていると出てきた数冊の絵本。その中で一際印象的だったのが『The Missing Piece(ぼくを探しに)/シェル・シルヴァスタイン著』だった。同著では『Giving Tree"(りんごの木)』がとても有名だけど、私はこの本のほうが好きだ。『星の王子様/アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著』を読んだときに感じたのと同じように、大人が忘れた大切な気持ちを思い出させてくれる。絵は白黒でシンプルで、言葉も少ないけれどどこか懐かしい。
「ぼく」である欠けた球体は、ゆっくり転がりながら歌いながらその欠片を捜し求めます。そこで見つかるのは多種多様な欠片達。自分には大きすぎたり小さすぎたり、自分には合わない欠片達。しかし旅の果てで自分に合う欠片を見つけます。そして欠けた球体は、ほんとうに球になる。球になった「ぼく」は速く転がり続けます。けれど気づきます、欠けた球体だった時はゆっくりだけど蝶を見れたことを。歌を歌えたことを。そして「ぼく」は欠片を置き再びゆっくりと転がりだす。歌いだす。
人は自分に欠けたものを捜し求め生きている。けれど欠けている部分の発見が重要なのではなく、欠けていることの自覚が重要である、ということを示唆しているように思えました。
続編には『ビッグ・オーとの出会い』という欠片からの視点で、別の結末を迎える絵本も出ています。これもまた大人の童画。オススメ。

新装 ぼくを探しに

新装 ぼくを探しに

PEACH JOHN PRESENTS フロアプレイ大阪公演を見たぜ

yurara19862007-03-26

http://blog.duogate.jp/floorplay/
大阪フェスティバルホールにて。とても面白かったです。ショーが終わった後も体が興奮したままでした。
「良かった、興奮した」
そんな言葉しかでないのは、体で感じるショーだったからだと思います。フロアプレイ公式ブログの

「ダンス」だけで、世界中の観客のハートをとりこにする劇場をダンスフロアに変えてしまう『フロアプレイ』の魔法。進化し続けるダンスエンタテインメント。2007年、日本公演は、何が起こるかわからない。
音楽にあわせて、次々と繰り出されるステップ。サルサ、スウィング、ジルバ、ルンバ、タンゴ、チャチャ、ワルツ、クイックステップ、フォックストロット、チャールストン、そしてディスコダンスのハッスル。目にも止まらぬ足さばき、高速スピン。軽やかに、しなやかに、ダイナミックに、超人的な身体能力をもつダンサーたちがノンストップでくりひろげる圧巻のパフォーマンスに、観客はステージから一瞬たりとも目が離せなくなる。まるで自分がステージで踊っているような気分になり、胸がどきどきと高鳴ってくる。そして気がつけば、歌をくちずさみ、リズムをとり、たちあがり、踊りだしているのだ。『フロアプレイ』のダンサーたちが踊るのは、舞台の上とは限らない。アメリカやオーストラリアの公演では、客席通路から現れたダンサーが、観客をダンスに誘うシーンもある。もちろん、これらはすべてダンサーのアドリブで、手をさしのべられた観客は、ダンサーと一緒に楽しそうに体をゆらしながらジルバを踊りだす。観客がダンスホールに遊びにきたような気分に浸れるサプライズの演出で、楽しいライブ空間を作り出し、劇場をダンスフロアに変えてしまう―――それが『フロアプレイ』の魔法なのだ。

という宣伝には嘘はなかったです。ほんと久しぶりに興奮させられたショーでした。ダンサーが目の前に来て踊りだしたときは気恥ずかしくもあったけどドキドキしました。
音楽はロック、ジャズ、クラブミュージック、ワールドミュージックなど多彩。セルジオ・メンデスの「マガレーニャ」、アイク&ターナーの「プラウド・メアリー」(オリジナルはCCR)、アレハンドロ・フェルナンデスの「シ・トゥ・スピエラス」、映画「ウエストサイドストーリー」の「トゥナイト」、そして「シング・シング・シング」、「スウィングしなけりゃ意味がない」、「ハーレムノクターン」辺りは王道ながら踊りと相まって良かった。個人的にはアンコールでかかった「プラウド・メアリー」が一番気持ちが昂ぶったな。「ローリング、ローリング」という軽快なテンポが素敵でした。
ただ敢えて不満を言うと、ショーそのものに物語が欲しかった。Disneylandのアトラクションが遊園地よりも魅力的なのは物語があるからだと思う。それと同じようにフロアプレイにも物語があれば更に惹き込まれるんじゃないかな。あと能、歌舞伎、或いはジャニーズのライブにあるような劇場の仕掛けの面白さ(花道であったり空を飛ぶ仕掛けであったり)も欲しかった。劇の本質(歌舞伎であれば芸、ライブであれば歌、フロアプレイであれば踊り)のレベルが低い場合、劇場の仕掛けの面白さというのは重要になってくる。歴史的にも歌舞伎は劇場の仕掛けの面白さで乗り越えてきた時代もあったし、ジャニーズのライブで歌だけを聴かせるライブというのはないと思う。フロアプレイは芸としては一流だけど知名度の無さ、といった点で劇場の仕掛けの面白さはもっと必要だったと思う。…と不満を言いながら十分にフロアプレイは楽しんだんですけどね。不満を払拭するだけの力がフロアプレイにはあった。

自らを「ダンスホリック(ダンス中毒者)」と言ってはばからない彼らには、ダンスに興じること=「Floor Play」なのだ。そして、もうひとつの隠された意味―――これは日本人にはちょっとわかりにくいのだが、「FloorPlay」を英語で発音すると「フォー・プレイ」とも聞こえる。「for Play」(プレイのための、プレイの前の)…すなわち、「前戯」にひっかけたアダルトな言葉遊び、洒落でもあるのだ

刺激的な大人の「遊戯(プレイ)」お勧めです。

マリー・アントワネットを見て

yurara19862007-02-22

三宮、神戸ミントにて。「ロスト・イン・トランスレーション」のソフィア・コッポラの新作。女優はスパイダーマンシリーズのキルスティン・ダンスト。遅ればせながら見てきました。
内容は「恋した、朝まで遊んだ。全世界に見つめられながら」という端書どおりでした。マリー・アントワネットの史実を描いたというより、女の子の甘ずっぱい青春時代を描いた作品でした。ただマリー・アントワネットが他の女の子と違うのはお金を持っていることだけ。ルイ16世との性に悩んだり、キュートなドレスで着飾ったり、甘い色々のスイーツを食べたり、鮮やかなシューズを履いたり、若い格好の良いフォン・フェルセン伯爵と不倫したり、ギャンブルに朝まで興じたり。今の女の子と変わらない姿を描いています。
シークエンスごとに衣装が変わり目にも楽しいのだけど、ただ裏を返すと物語としては脆弱と言われても仕方ないと感じました。場面の繋がりに意味を感じなかった。例えばフォン・フェルセン伯爵との不倫は、話の流れとしてあっても無くても同じだと感じた。映画である限りは、話は一貫した違和感ない流れが欲しかった。でもそれでも良いと思ったのは、ベルサイユ宮殿は息を呑むほど美しいし夫人達は小悪魔のように可愛い。それだけで十代後半の馬鹿騒ぎの、なにか熱っぽいものを感じて私は満足しました。
マリーのお付きのノアイユ伯爵夫人の"This, marie, is Versailles."というセリフはこの映画やベルサイユそのものを語っているように思いました。面白い映画でした。

この世の限り/錯乱

なんとなくラジオを聴いていたところ、椎名林檎の曲が流れてきた。どうやら最新の曲らしい。もともと椎名林檎の歌は好きなんだけど、東京事変というバンドを組んでからは新曲の発表があまりなく、興味が離れていた。どうやら今回の最新曲は東京事変としてではなく椎名林檎と兄の椎名純平名義の曲らしい。聴いていると、これがなかなかいい。相変わらずの可愛らしい声、深遠な英歌詞。サビにさしかかり、彼女は熱唱する。
「And take this point of view/Nothing is old,and Nothing is new」
ポップな曲調でそれだけで楽しくなるのだけど、それ以上に強いお酒のような歌詞なので聴いてクラクラしてしまった。冒頭で
「この世に限りはあるの?もしも果てが見えたなら、どうやって笑おうか、たのしもうか…もうやり尽くしたね。じゃあ何度だって忘れよう。そしてまた新しく出会えれば素晴らしい。さようなら 初めまして」
という歌詞がある。普通なら「限り」があるならそれを恨んだり悲しんだりすると思う。私ならそうだ。しかし彼女は「限り」を受け止め、何度も忘れ何度も出会うという選択をする。「限り」を眼の前にして、忘却と出会いの繰り返しの「永遠」。それを軽やかに唄う彼女は、強く美しい。
この曲を聞くと過去のアルバム「唄ひ手冥利」の一曲「玉葱のハッピーソング」を思い出す。もちろん、この曲も椎名純平と一緒に歌っている。当時はヘビーローテーションで聞いていた一曲でもある。底抜けに明るい曲で、高校生の私は子供みたいな顔をしながら聴いていた。アホである。でも本当に好きな曲だった。けれど「この世の限り」には「玉葱のハッピーソング」にはない、椎名林檎の世界の捉え方が現れていて更に惹き込まれてしまう。
カップリング曲の「錯乱(ONKIO ver.)」と「カリソメ乙女 (HITOKUCHIZAKA ver.)」の2曲も魅力的で花魁の世界を思いおこさせられる。ある種の危機感というか、切迫感が緊張を引き起こして、ぞくぞくする。
カルタシスを味わいたい人へ、お勧めの一枚です。

この世の限り

この世の限り

エターナルサンシャイン

yurara19862006-12-31

もう、2006年も終わりですね。

エターナルサンシャイン。監督はミシェルゴンドリー。
主演はジム・キャリーとケイト・ウインスレット。
記憶と現実が入り混じる世界の景色を映す、映像センスは抜群に良い。氷の上に寝っころがって星を見ているシーンのように絵的に美しいシーンもたくさんある。それより、何より、ストーリーが良い。中でも、ジムキャリーがケイト・ウインスレットと一緒に記憶の忘却から逃げるため、秘密の記憶に逃げるというところがとても素敵。ケイト・ウインスレットが何でも恋人と共有したい性格なのに対し、ジムキャリーは逆に秘密を持っている性格。その二人が恥ずかしながらも記憶を共有していく姿は共感を覚える。
記憶の忘却の最後のシーンである、海の家が記憶消去と共にどんどん崩れていくシーンは泣ける。ケイト・ウインスレットが崩れ行く家からほんとはジムキャリーが逃げ出したのが現実なんだけど、
「せめてサヨナラを言った事にしましょう」
と言いキスをする。

エターナルサンシャインの唯一のラブシーンでのジム・キャリーのセリフ
"Please let me keep this memory.Just this one."
誰かと共有した想いは何よりも大切なもので、その記憶だけは残して、2007年も大切な人や物を共有していきたいと思います。